上がり







彼女は朝からものすごかった。何がものすごいのかと問われたら、そりゃあもうものすごいとしか答えようがない。とにかくものすごかった。鬼気迫るものがあった。そして彼は後になって語る。「殺されるかと思った」

自分がそんなふうに言われるとも知らないであろう彼女は席につくなり鞄をさかさまにひっくり返した。机の上に散乱する財布、ペンケース、教科書、小銭、お菓子、眼鏡・・・その他もろもろ。彼女は血眼になってそれらを引っ掻き回した。ペンケース、財布、お菓子、ペンケース、教科書、小銭、お菓子、眼鏡、教科書。その様子があまりにあんまりだったので彼は引き気味にしてその様子を見つめた。こんな姿みたことない。こんな彼女は知らない。じゃあこれは彼女じゃない。彼はそう思うことにした。ので、いかにも「予習してます必死です」という雰囲気を出してみた。それこそ身体中の穴という穴から。

彼女はそんな彼にもお構いなしで「ない、ない、ない」とぶつぶつ言いながら机の上を引っ掻き回す。飴玉がひとつぶ机から転げ落ちたのを彼は見た。その目でしっかりと飴玉の行く末を見た。見なかったことにしよう。彼はシャーペンを握り締めカンマ1秒でそう決めた。驚くべき速さ。

転げ落ちた飴玉も気にせず彼女は未だ机の上を引っ掻き回している。「なんでないの」もう一度鞄をひっくり返す。「なんでなんで」落ちてくる埃に呆然としながら彼女は呟く。「なんでなんでなんで!」それはこっちが聞きたいよ、彼はそう思ったが口には出さない。今は全力で予習しているフリをし続けなくてはならない。額ににじみ出る汗。キリキリ痛む胃腸。

ああもう、とため息をつくかのように呟いた彼女はずるずると椅子に身を任せた。彼は幼稚園児のように唇をとんがらせた彼女を見て、本当はこの人幼稚園児なのかもしれないとありえないことを思った。それはいくらなんでもあんまりだあんまりすぎる。それでも一度頭に植え付けられたイメージはなかなか払拭されてくれない。

幼稚園児は唇をとんがらせて足をばたつかせる。うつむきながら言葉にならない音を発する。「あー、うー」彼はそんな幼稚園児を横目で見つめた。まるで欲しいおもちゃが手に入らないときのような、はたまた嫌いな食べ物がお弁当にはいっていたかのような、そんな表情。あとは頭に黄色い帽子をのせて、水色のなんかふわっとしたのを着せれば完成だ。完璧だ。どこからどう見ても幼稚園児だ。誰も文句は言えやしない。「・・・ぷっ」そこまで想像して思わず吹き出した。しまった。身体中から噴きだしたのは嫌な汗。隣から感じる鋭い視線。

彼女は彼にちら、と視線を投げかけた。彼は俯く。後ろめたさに、ではなく、未知の恐怖に。けれど彼女からは最早何の気配も感じない。彼が訝しく思ったその次の瞬間、彼女の動く気配がした。思わず様子を伺う。そしてぎょっとする。彼女が机に突っ伏している。あろうことか、肩をふるわせて。

彼は固まった。身も心も共に固まった。硬直。フリーズ。いまや予習しているフリもままならない。どうしよう。笑ったのがバレたかもしれない。でもそれは思っただけで口には決して出していないし、彼女に対しておかしな態度をとったというわけでもない。いや、でも、まさか。頭の中でとにかく逆接ばかりをくっつける。でも、しかし。

「いやあの」思わず声が出た。彼女は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げて南の顔をじっと見つめた。

「いやあの」何がいやあのなんだ、と自分で疑問に思う南。「せ、千石が」千石がどうした。

「いやあの、こないだ部活に千石が、その、飴玉を持ってきて。・・・で、練習中にもこっそりなめてて。で、転んだ瞬間、のどにつまらせちゃっ・・・て、」だからどうした。「だからその、思い出し笑いをしただけで、決してさんを笑ったわけでは」ないと言いたい。

はきょとんとしている。鼻水をすすることさえ忘れて南を見つめる。この言い訳はちょっと苦しいかもしれない。嘘八百もいいとこだ。南はそれこそ地球の裏側まで後悔した。穴を探さなくてはならない、今すぐその穴にとびこんで、ここから消えてしまいたい。

頭をがじがじ掻き毟りながら南はうなる。「あー、うー」どっかで聞いたようなうなり声。はそんな南を見つめて、それから俯く。呟く。「ごめんね、ちょっとなんかもう、自意識過剰でさ最近」弾けるように顔を上げる南。

「みんながみんな、私のこときらいなんじゃないかなって、ごめん」
「いや、おれこそ、なんかごめん」

なんだこの空気。気まずい。明らかに気まずい。今日はせっかく雨で朝練も中止になったのに、せっかくあいつらに会うこともなくさわやかに朝を迎えられたというのに。数分前の自分を思い出しても既に遅い。「でも千石くんて、やっぱりおもしろいんだね」涙をこらえて笑った彼女。胸が痛む南。ごめんそれ嘘なんだ、なんて、言えたもんじゃない。「・・・おれでよければ、聞くけど。話」

言ってしまってから南は思う。誰だって言いたくないことのひとつやふたつあるはずだ。増してやただのクラスメイト。たまたまクラスが同じになって、たまたま席が隣同士になったというだけなのに。そんな関係のおれに彼女がいったい何を相談するというのだ。南はまた穴を探しはじめた。いっそ埋もれてしまいたい。

「あの、ごめん。言いたくなかったら別に「あのね」
・・・はい、」

言わなくてもいいんだけど、という言葉は彼女の「あのね」にさえぎられた。姿勢を正す南。聞くと言ったからには、最後までちゃんと。せめてこれくらいは。

「あのね、大事なものをなくしたの。どこを探しても見つからなくて、落ち込んで。そしたら今度は転んで足とか擦りむいちゃうし、数学の小テストは散々だったし、そう、鞄の中をひっくり返しても見つからなかったし、とにかくヤなことばっかり続いて。

・・・なんかね、もう何がどういう風に嫌なのかもわからないくらいなの、とにかく嫌で嫌でしょうがないの、学校にくるのも、授業受けるのも、部活するのも、全部面倒なの、もうだめなの、もうがんばれない」

一息にそう言ってから、はまた瞳を潤ませ肩を震わせた。「あー」なんだか「うー」なんだかよくわからない音が彼女の唇から漏れた。南は今度こそうろたえて、周りをきょろきょろ見回し、まだ誰も登校していないことを確認した。とりあえず確認した。そしてもう一度を見つめる。ひどく小さく見える。

もうやだ、もうやだがんばれない、うわ言のように繰り返すに、南はかける言葉も見当たらない。彼女がどうして泣いているのかはわかる。なんとなくわかる。自分にだって経験はある。全てが嫌になるあの感覚を、自分は知っている。そう思った。けれど、自分がどうやって立ち直ったのか思い出せない。どういう言葉が欲しかったのか、思い出せない。

だから、右手を彼女の頭にのせてみた。頑張れと言うでもなく、大丈夫だと言うでもなく、南はただただ右手での頭を撫でた。頑張らなくても大丈夫だと、そういいたかった。きっと、彼女はもう十分すぎるほど頑張った。そう思った。頑張ったなあ、そう思った。だから頭を撫でた。そんな気がした。





頭を撫でる南の手はとてもぎこちなく、そしてやさしかった。遠くで雨が上がるのを感じながら、このやさしさにもう暫く甘えていようとは思った。





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20070626-27...南ちゃんに頭をなでてほしかったので(そんな)。